海外から見る日本という国

外から見た「日本」という国

よく海外に出た人が言っていたこと,それは

「外から日本という国を見ることができる」

いやいや,そんなこと言ったって日本はいい国だし,安全だし,テレビなんかを通して行ったことのない地域のことも知っているよ.というのがそんな話を聞いていた大学生の時の僕の感想.だって今はグローバル社会なんだから日本のことだけじゃなく,知ろうと思えば海外に行かなくても海外のこと知れるよ.なんて思っていた.

 

 

この前,日本人で集まった時たまたま「海外から見た日本」の話になったわけだ.ちなみによくタンデムともそんな話をするんだけど,これが結構面白い感じに話が発展していく.

僕は海外に出て日本の悪口を言うのも,行った国の悪口を言うのもあまりしたくない.なぜなら文化が違うのだから違って当たり前でどっちが悪い,どっちが良いということではないからだ.だけど冷静に見てもなんだか色々と悲しいことってあるなと最近感じている.

僕がまず第一に辛いなと思っているのは大学生の違いである.とは言っても僕が知っている日本の大学生は北海道の一部の大学生だけであるので全てがそうと言っているわけではない.

ただずっと疑問に感じていたのは,「なんとなく大学行くってどうなの?」ってことである.これは何も大学生を責めているわけではない.でも,やりたいことがわからない,将来どんな仕事をするか考えたことがない,みんな大学行くし俺も……っていう高校生が大学への進学をするべきなの?という話である.

 

いつからということはないけど,責めて大学に行く前までに,こんなことしたい!と考える時間は作る必要があるはずだ.そんなことを考えるから人生はいろんな選択肢がある.専門学校に行く,大学に行く,海外で修行してみる,働きながらいろんなノウハウを覚えていく,などやりたいことを考えていくとそうやって選択肢が出てくるはずである.ドイツでは小学生くらいから将来の進路について考えて大学に行くかどうかも中学生くらいまでには決まる.それがいいか悪いかは置いておいても,やりたいことを考える時間が10代のうちにたくさんあるというのはいいことだと思う.自分がやりたいと思うことに出会いたいというのも立派な「やりたいこと」だと僕は思っている.

 

僕が一番嫌なのは,とりあえず私立でもいいから今は大学を出ないと働けないというある種の洗脳である.そのために18歳そこそこの若者が奨学金という良さげな名前のついた借金を背負う羽目になる.僕が高校生の時は高校に入学してからすぐに,国公立大学を目指して頑張ろう的な風潮に乗せられた.今回の点数ならこの大学狙えるね,とか.今回の点数じゃここの大学はD判定だ,とか.高校生の頃はセンター試験のためにそれなりに頑張って勉強して大学に入ったけど,入ってからなんてほとんど勉強という勉強をしていない.

 

ドイツの大学生はというと,本当によく勉強している.自分はサッカーについて学びたいからと言ってその専門家がいる大学を自分で選び,日々学びを深めている.日本に来て,日本という国が素晴らしいと思ったから日本語学部に入り,毎日日本の歴史や文化,そしてもちろん日本語も学んでいる大学生もいる.なぜかはわからないが,ドイツに来て同じ世代,もしくは僕よりも下の世代の人たちと接してみて,ドイツの20代前半の彼らは本当に優秀でしっかり考えて行動しているように僕の目には映っている.


人生の夏休み

よくそんな言い方を日本の大学生はする.

 

部活をして,テキトーに授業に参加して,バイト行って,友達と遊んで…

僕は本当にそんな感じの生活を送っていた.机に向かってガリガリ勉強するんじゃなくていろんなもの見て経験して学ぶのが大学生の学び方だとか言っていた.確かにそれはそれで大事なことであるが,やはり地道に何かを学ぶ時間も必要だったと思う.そしてそこに費やすための時間は腐るほどあった.本を読む,英語を学ぶ,専門としていた体育,スポーツについてもっと考えを巡らす.正直今目の前にしているドイツの学生を見ていると本当に悔しい思いがあるし,何をしていたんだろうと思ってしまう.

 

今までの自分は「テストのため」「模試のため」「センター試験のため」にしか勉強をしていない.ドイツの学生ももちろんそれはあるが,それ以上に自分のやりたいことのために学んでいるのである.その姿は本当に見習わなければいけないと思う.今の僕は,ドイツでバルシューレ,スポーツ文化を学ぶために,ドイツ語を学んでいる.やらされている感がまるでない.人とドイツ語で話すのもテキストに向かって鉛筆を走らせるのも高校時代に比べたら全く苦ではない.例えば,英語に置き換えれば,外国人と話すのだって怖かったし,英語を使いたいなんて思ったこともなかった.テキストに向かって勉強しているのもテストでそれなりの点数を取るためだった.今のドイツ語の勉強が苦ではないのは,やりたいことが明確にあるからだと思う.

 

だから,これからの日本という国を支えていくはずの大学生,いや大学生だけでなく,高校生も専門学生もみな,「人生の夏休み」と考えるのではなく,「自分のやりたいことを達成するための準備期間」ととらえてほしい.そうすれば,時間の使い方が変わってくるはずである.


人が育つということ

本当に強く思うが,全ての教育機関が変わってほしい.少なくとも僕の通ってきた学校は,やりたいことを本気で考える時間もなかったし,これは面白い!とか,もっと学んでみたい!と感じる瞬間はそんなに多くはなかった.

小学校の先生は忙しくて全ての授業を面白くするなんて難しすぎる.
中学校の先生方も高校受験に備えて授業をしないといけないし,部活も見ているから時間がない.
高校の先生方も大学受験のための授業の組み方をする人が多く,面白さなど意識していられない.
大学の先生方は授業をすることよりも自分の研究を進めなければいけない.

 

例えば英語の授業だが,決して先生方が嫌いだったわけではないが,大体の授業が面白い!もっと英語を話せるようになりたい!と思うものではなかったし,英語に興味を持てるようなものじゃなかった.もっと話すのが楽しい!使いたい!外国人と友達になりたい!と思えるようなものだったらきっと習得していただろう.

 

体育の授業だって,スポーツが好きだったから体育もそれなりに好きだったが,体育の時間を通してスポーツそのものに熱中したことなんてほとんどないんじゃないだろうか.

 

まず,「先生」「教師」という仕事の本来のあり方をもう一度考えることが必要だと思う.もちろん親の話を聞くことも,会議に必要な書類を作ることも仕事として必要ではあるけど,一番は子どもとともに育っていくことではないかと僕は思っている.そこに一番時間を割くべきである.それなのに,そのほかの仕事に追われて家に帰る時間も遅い,朝も早い,子どもの前では明るく振る舞わないといけない.こんなことをして病気にならない方がおかしい.

 

今回は大学生の違いを話した.しかしその根本にあるのは全ての教育機関だとも話した.そしてその教育機関で働いているのは紛れもなく教師という人間である.その教師が余裕をもち,子どもたちの面白い!やりたい!を引き出すことが,日本とドイツの大学生の差を埋める一歩になると僕は信じている.

 

ハイデルベルクという街は大学生の街と言われているが,活気があって本当に過ごしやすい街だ.僕がいた釧路という北海道の街も,「学生さんがいろんなことに積極的で活気にあふれているね!」と言われるような街になってほしい.

 

ちなみにドイツの学校の先生方の多くは3時には帰るそうだ.
大きな違いは「心の余裕」ではないかと僕は考えている.

 

 

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海外から見る日本という国” に対して2件のコメントがあります。

  1. えんどー より:

    海外の学校のスクールソーシャルワーカーの実態がぜひ知りたいです。
    あと、よく聞くのは日本は大学に入るのが難しいけど出るのは簡単で海外はその逆って話
    その辺もブログに書いてくれたら嬉しい(^^)

  2. 高橋 裕之 元西当別中 より:

    お久しぶりです。
    時折こっそりコメントを拝読しておりました。
    大変立派になり嬉しく思います。
    私という人間を大きく超えてくれていることが本当に嬉しいです。
    私も日本を離れマレーシアにいます。
    また活躍をこっそり見ています。
    S.Rにもよろしく
    彼女の活躍もこっそり見ていました。とお伝えください。

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