「勉強しなきゃ」じゃなくて,「もっと知りたい!」
子どもたちの進む道
今,多くの高校生は大学に進学する.
「やりたいことが何かわからない」
という高校生も多いはず.でも,今の社会は,「とりあえず大学は出た方がいい.」という流れのもと,多くの大人が高校生に大学進学を勧める.社会の流れとまだ右も左もわからない高校生との間に立ち,進路をともに考えなければいけないはずの先生方は,目の前の生徒が本当に大学に進学するべきか考えてあげられているだろうか.
僕が高校生の時は,正直真面目に授業を聞いていたとは言えない.どちらかというとサッカーをしに高校に行っていたと言っても過言ではないと思う.でも今振り返っても高校の授業が今の自分に繋がっていると感じることはほぼない.例えば世界史の授業で教えてもらったことを今では何も覚えていないし,暗記した年号と人物は覚えているものがあっても,何が起きてどうなったか人と議論することもできない.
高校では,基本的に受験のための勉強がほとんどだったし,正直3年生になるまではそのような勉強に興味はなかった.そして正直,高校生活はあまり楽しくなかった.
勉強という言葉の違和感
「私ももっと勉強しなきゃな〜」という彼女の言葉に対して,何か違和感を覚えた僕は,「勉強」という言葉について少し考えてみた.
「勉」という漢字には,無理に力を出して励む.「強」は字のごとく「強いる」という意味がある.ということはあまりやりたくないことを強制されてやらされるというような意味になる.今ではポジティブに使うこともあるけど,言語は文化を反映しているものだと僕は考えているから,
「私ももっと勉強しなきゃ〜」は,どうしても,あまり気乗りはしないけど,やらないといけないんだというニュアンスが乗っているような気がした.
今の多くの小学生,中学生,高校生は皆,「勉強」しているのはないだろうか.将来何の役にたつかわからないけど,先生が聞けと言うから授業を聞く.興味ないと言って話を聞かなければ,評価が低くなってしまう.
小学校1年生は入ってきた当初,学校での授業が楽しくて仕方がないそうだ.でもこの前会った小学校4年生は「学校は楽しくないし,授業は面白くもなんともない.」と言っていた.その4年生たちは新しい何かに目をキラキラさせるわけでもなく,ただ学校生活や目の前のことについて愚痴を言っていた.
なんだかその姿を姿を見て悲しくなってしまった.
小学生でその状態ということは,中学生,高校生と上がるにつれて,どんどん意欲もなくなり,学ぶことの面白さとは180度真逆の方向に行ってしまうのではないだろうか.
スポーツの燃え尽き症候群と一緒で,小さい時から何かを子どもに詰め込もうとすると,子どもたちはそのことを嫌いになる.というかこれは子どもだけじゃなくて大人もそうだろう.
先ほど言ったような意味で考えると「勉強する」という行為はそのことを嫌いにさせる1番の近道 ではないだろうか.嫌いになったものを無理くりさせられるなんて誰もが願い下げのはず.しかし,今の学校はそれをしてしまっているのではないだろうか.
知らなかったことを知るキラキラ感
なぜ最初に進路の話をしたかというと,何かを学ぶということに興味がなくなってしまっている高校生を,「周りがみんな進学するから」という理由で,何かを学ぶことが目的の大学という場所に送り出していいのか,という話だ.それで「うちの大学からは国公立大が何人出ました!」ってどうなっているんだろう.
これは高校の責任だけではない.「勉強」させてしまっている義務教育,そして高校にも問題があるし,そういうカリキュラムを組むしかない状態になっている国の問題でもある.
理想論だと言われても,新しく何かを学ぶことは面白い!こんな知らない世界があったんだ!と感動を与えるのが先生という仕事だと思うし,授業の本質だと思う.
高校までそういう学びをしていれば,「将来こんな仕事をするために,ここの学科に進みたい.」「私が将来やりたいことは,大学に行く必要はないから専門学校に行こう!」というような進路選びをするようになるのではないだろうか.
僕は最近になって,どんな仕事も遊びに変わるということを知った.先生をしている僕の周りの人たちの中には,もう働きたくないという人もいるけど,それ以上に目をキラキラさせて楽しんでいる人たちもいる.「想像以上に面白い」と小学校で働く僕の兄のような人は言っていた.
先生という仕事をしてそう感じられるのだから,子どもたちも必ずそうとらえることができる.
たくさんの子どもたちの目を輝かせることこそ,僕たちの仕事ではないだろうか.