いったい誰のため?
お・も・て・な・し
ある時期に日本では「お・も・て・な・し」という言葉が流行ったことがある.
日本の「おもてなし」の文化をもっと世界に発信しようという思いがあったのかもしれない.
「おもてなし」とはいったいなんだろうか?
ボランティア活動などを代表して人のためになることをしようということは,小さい時から学校などでよく言われるし,道徳などでも学ぶことかもしれないが,私はそういう「人のためにする」ことに対して疑問がある.
誰のためだろうか
違和感を持ったのは,先日釧路にドイツの学生たちがきて,文化交流をした時のことである.
最終日は,スポーツ吹矢,折り紙,学生とのディスカッション,剣道,空手,太鼓とプログラムが目白押しだった.どうしても感じてしまったのは多すぎないだろうか.という疑念である.ほぼノンストップでドイツ人の彼らはプログラムに参加するわけだが,後半はきっとフラフラだったに違いない.
地域の人たちは皆,できるだけ釧路の文化を知ってもらいたいと,準備してきたものを披露し体験してもらう.その思いはよくわかる.しかし,それはどこかで,彼らに色々な体験を知ってもらいたい!という自分の思いを満たすためになっていないだろうか.
もともとプログラムにはなかった催し物が,当日に入ってきて,時間ですと言われてももう少しだけと持ち時間を伸ばすというのは,本当に彼らのためなのだろうか.私にはどうしてもそうは見えなかった.
彼らがもっとやりたいというのであれば,提供してもいいと思うが,彼らの意思はそこにはなかったのではないだろうか.
おもてなしとは,自分たちのもてなしたいという欲,もっと伝えたいという思いを満たすことを意味するのではないと私は思う.相手がしてほしいと思っていることをする,相手が出すヘルプに答えてあげる,そういうものではないかと思うのである.
自分のために
個人的に日曜劇場で放送される,池井戸潤さんの作品が好きだ.陸王,半沢直樹,下町ロケットなど,ドラマだとはわかっていながら,テレビに釘付けになって見てしまう.今は,「ノーサイドゲーム」という社会人ラグビーを題材にしたドラマが放送されている.今年のラグビーW杯を前にして少しでもラグビーの認知度を上げようとしているように感じるため,少し,いや,かなり斜に構えて見ている部分もあるのだが,さすが池井戸潤,さすが大泉洋と言わざるを得ない.毎度テレビに釘付けだ.
先週の第3話の放送は,観客動員を増やすために選手たちが地域でボランティア活動を行うような内容だった.
その話の中で選手は「ボランティア活動なんて意味ないし,このままではもうすぐ始まるリーグ戦を戦えない!」と途中で投げ出してしまう.
しかしキャプテンであるテツが怪我で入院した時に,ボランティア活動でボールをあげた子どもとその子のお母さんが,
「この子は岸和田選手(テツ)から勇気をもらって,今まで怖がっていた手術に臨むことができたんです」
「テツも頑張って!」
と言う.そこで,ボランティアって自分のためにするものだと気づき,自分が誰かに渡したものは何倍も大きくなって返ってくるということを知る.
というエピソードだ.
ドイツで出会った人たちは僕に,見返りを考えずに本当に色々なことをしてくれた.年末に泊めてくれたドイツ人の家族は一言も文句を言わず,僕と友達3人を歓迎してくれて,街の案内も,美味しい料理も振舞ってくれた.
学校見学をコーディネートしてくれたAsukaさんは学校との連絡を全てとってくれただけでなく,弟さんの家,お母さんの家に僕を泊めてくれた.嫌な顔など1つもしなかったし,それはもしかしら彼らには何のメリットもないことなのかもしれない.
ここでは紹介しきれないほど,たくさんの人にたくさんのことをしてもらったことを僕は絶対に忘れないし,見返りを求めずに人に何かしてあげられる人になりたいと心から思った.
ボランティアの精神,おもてなしの精神ってそういうものではないだろうか.最初から何か見返りを求めたり,履歴書に書けるからという理由でやることではないはずだ.自分が相手にできることをする.それが巡り巡って返ってくる.そういう流れを自然と捉えているからこそ,ドイツで出会った人たちは僕にとんでもなく優しくしてくれたし,どんな時でも嫌な顔をせずに人に尽くせるのではないだろうか.