絵を描くことが大好きなひねくれた恩師
1人の恩師
だいぶお久しぶりの投稿となります.
今日,大学のとある先生から声をかけられました.
「梅村先生,『小倉恵一』って知っていますか?」
一瞬,戸惑いましたがすぐに,「自分の中学校の時の先生です!」と答えました.
こんなところで,自分の中学校の時の先生の話が出てくるとは思わず,一気に嬉しくなりました.
でも,次の瞬間にその思いとは別の感情が湧き出ました.
「先月,亡くなったみたいです.」
話してくれた先生によれば,小倉先生が働いていた高校の先生が朝になっても職場に来ない小倉先生を心配して家までいくと,自宅で倒れていたそうです.
今日,話をしてくれた大学の先生は,小倉先生と大学で同級生だったそうで,美術の研究室が一緒だったとのことでした.亡くなったことを聞いたその先生は,小倉先生と20年近く会っていなかったそうですが,Facebookを見て小倉先生と僕が繋がっていることを知って話してくれたということでした.
今回は,追悼の意味も込めて,中学校時代のことを振り返りたいと思います.小倉先生は,今の自分に確実に影響を与えている先生のうちの1人です.
梅の木に梅の花咲く
小倉先生が,僕のいた中学校に来たのは,僕が中学2年生の時でした.その時は臨時の先生でしたが,中学生の自分には正規の先生と臨時の先生の違いなどよくわかりません.太った先生が新しく美術の先生として来て,しかも副担任になったという印象でした.
ちなみに,中学校3年間担任をしてくれた先生も太っていたので,当時はフォルムの似た2人が担任でよく友達と笑っていたのを思い出します.
今思えば,小倉先生は僕の中学校に来た時が,おそらく20代後半で,今の僕の年齢にとても近かったと思います.
僕は,美術が教科の中で1番嫌いでした.絵を描くのも作品を作るのも苦手で,授業中も周りの友達と話してしょっちゅう怒られていました.今でも,周りの人と話すことが好きですが,その当時から周りの人とよくしゃべっていたので,だいたいどの教科の先生にも注意されていた記憶があります.
特に,小倉先生は仏頂面で,ぶつぶつと僕に「本当にうるさい」とよく言っていました.
今思えば,それは注意や指導ではなく,もはや文句でした.
小倉先生にはよく怒られていましたが,不思議と小倉先生に文句を言われることに対して,反抗心を持ったことはありませんでした(小倉先生にとっては相当鬱陶しかったと思います).
僕は中学2年生の時に,生徒会長になることになります.
生徒会長になったのはいいのですが,僕はその当時から調子が良かったので,クラブチームのサッカーの練習やらなんやらで,他の生徒会のメンバーにかなり仕事を任せていました.中学校の生徒会ともなると,本格的に会議をして色々と決め事をするのですが,会議も大嫌いでした.
可哀想なことに,小倉先生は生徒会の担当で,いつも僕に注意や指導と言い切れない文句を言っていました.美術の授業でも生徒会でも僕の顔を見るのは本当に嫌だったと思います.
生徒会長の代表的な仕事として,行事のたびに「それでは,生徒会長の梅村くんから〇〇の言葉です」と言った具合に生徒たちの前で挨拶をします.
なので,行事のたびに挨拶を考えて,先生に見てもらって,前日くらいに練習して,調子がいい時は暗記して,調子が悪い時はメモを見て話すわけです.その場しのぎの挨拶をしようとする僕に対して,小倉先生は毎回,「また面白くない挨拶だな」とこれまた文句を言います.
今振り返れば,本当にお調子者だったなと反省する部分もあり,そういうところは今もあるなと思ったりします.
ただ,挨拶の時に一度だけ,小倉先生が褒めてくれたことがありました.
3年生の体育祭でのことです.僕たちの学年は3クラスあって,長縄跳びやリレーなどでクラスで争うわけですが,僕のクラスは負けてしまいました.可愛いことに,クラスの結構な人数が悔し涙を流していて,僕もそのうちの1人でした.
もう家に帰って不貞寝したい,と思いながらも僕には閉会式での挨拶が残っていました.
もちろん,また前日までに挨拶を考えていて,文句を言いながらも小倉先生がOKを出していて,それなりに暗記もしていたのですが,いざ負けて生徒たちの前で話そうと思った時に,話したい内容が前日までに考えていた内容とは大きく違っていました.
その時に初めて,「自分で考えたことを人前で話す」ことを経験しました.「みなさん,お疲れ様でした」という決まり文句の後は,その場でみんなに伝えたいことを考えて,無我夢中で話した記憶があります.
その閉会式の後に,これまで見たこともない顔で小倉先生が褒めてくれました.10年以上経った今でも忘れられない瞬間です.
卒業文集に,卒業生が書いた作文とともに先生方から卒業生に向けて書いた文章が載せられるのですが,そこには
「梅の木に梅の花咲く」
と題して書かれていた小倉先生の文章が載っていました.内容は,僕の体育祭でのあいさつの話でした.自分が中学校生活を通じて成長した様子を,文句を言いながら本当に近くで見ていてくれたのが小倉先生だったのではないかと思います.
先生という仕事
(写真は小倉先生のFacebookに上がっていた教え子たちの似顔絵)
僕は,小倉先生をはじめ,中学校の先生たちのことを本当に信頼してました.
中学校の時は先生たちと過ごす時間が僕にとって本当に大きなものでした.
その信頼は,中学生の自分が「先生」という仕事を目指す理由として十分すぎるものでした.間違いなく中学校の先生たちの影響で今自分は教育者として生きていこうとしています.
今日,小倉先生が亡くなったことを伝えてくれた先生が,小倉先生のお母様の言葉を少し教えてくれました.
「美術の世界で生きていこうとしていた息子に,食べていくために教職の道を進めた.
あの時に教師になることを勧めていなければこんなことにはならなかったのかもしれない」
直接的に,教師になったことで亡くなったわけではないのですが,あまり会うことがなかったというお母様がそのように捉えてしまうのも無理はないのかもしれません.
でも,小倉先生に出会ったからこそ,文句を言われたからこそ,学校生活を楽しく過ごすことができた,成長することができたという生徒さんが本当にたくさんいると思います.
僕は間違いなくそのうちの1人で,小倉先生に出会えたからこそ,成長を実感することができ,先生という職業に憧れて目指しました.
小倉先生は,高校の合格発表で生徒が学校に報告に来たときに,配布物の中にあるものを忍ばせていました.
それが約100人分の似顔絵です.
最後に顔を見せることもなく,声をかけることもなく,自分が描いた似顔絵を一人一人の配布物の中に入れていました.
口下手な先生だからこそ,絵が大好きだった先生だからこそ,できる卒業生への花向けなのだと思います.
僕も,1人の教育者として,小倉先生のような愛情深い人になることを目指して,また頑張っていこうと思います.
p.s.小倉先生は大学時代,自分のゼミ室でもずっと文句を言っていたそうです.
うめが卒業してからも、小倉先生は生徒会室でしょっちゅううめの文句言ってたよ。
最初はぶすっとしてるし美術の授業いやだったけど、いつのまにか生徒会室で小倉先生とおしゃべりするの、放課後の楽しみになってたな。悲しい
生徒に媚びない距離感とユーモアのあるボヤキが大好きでした。
卒業後に学生時代の先生方の動向を気にしたことはないのですが、小倉先生だけはなんとなく気になってました。「ちゃんと先生になれたのかな」と。当時は臨時職員のような立場で正式採用ではなかったと記憶しています。16時頃になると「小倉先生、勉強の時間です。」と別の先生が校内放送で呼び掛け、生徒会室にいる小倉先生は渋々動き出し、私達は笑う。大人になった今思えば、先生たちにとっても可愛い後輩だったのかもしれません。
悲しい形ではありますが、ここで知ることが出来てよかったです。記事にしていただきありがとうございました。