広島大チームとの出会いと北海道での研究会

北海道での研究会の計画

かなり久しぶりにこのブログを開いて,書いてみる.

ただ,ちょっとだけこれまでとこのブログの使用目的が僕の中で変わっているので先に書き記したい.これまでは,自分で自分を振り返ることを目的にしていた部分もありながら,どこかで誰かに見てもらう前提だったし,どういう流れや見せ方だったら読みやすいかと読み手のことを考えていた.

ドイツにいた頃によくこのブログを書いていて,そのことで色々と揉め事があったり悩むことがあったりしたけれど,これからは今現在の梅村拓未が何を思って,何を考えていたのかを書き残すための日記としたい.

そんなことをするのはなぜか.今,北海道の体育科教育,いや教育は変革期にあるのではないかと思っている.ありがたいのかなんなのか,僕はその渦中にいて変遷を見て考えることができる立場にある.北海道の教育はこれからがきっと始まりになるので,いわゆる創世記をしっかりと記しておくことが,今後歴史として振り返るときに大きな価値を持つと考えられるわけだ.

さて,今回は北海道の教育の分岐点となるであろう,2023年10月に実施した北海道の研究会について書き記す.

 

2023年6月,中島先生が広島大チームが主催するPETE研というものに呼ばれた.中島先生は僕にも声をかけてくれたが,招待されたのは中島先生だったということもあり,僕は行かなかった.今回の会場は島根県で,島根大学の久保先生と中島先生がOECDの翻訳チームで一緒になったことから声がかかったようだ.

それまでも中島先生は,北海道の体育科教育を盛り上げるために尽力するだけでなく,道外の様々な地域の先生たちとのつながりを作り始めているときだった.それまではやはり北海道に体育科教育の文化が乏しく,発展する土壌が育っていなかったため,学会などでは素性がわからない,急に海外から帰ってきて現れたと言われて,かなり牽制されていたようだ.この様子について,僕は一部しか見ていないため,あまり詳しく書くことができないが,今でこそ北海道の中島寿宏だが,それまではどこの研究者かわからないけれど,なんか面白いことをやっている人と認識されていたのかもしれない.

 

さて,話を戻して,島根でのPETE研から帰ってきて,中島先生はかなりインスピレーションを受けたらしく,電話でもその研究会,その後の交流会での広島大チームと話したことなどを僕に教えてくれた.ただ,その頃の僕は,実感も持てず何がすごいのか,何が強いのか,北海道が弱いということはわかっていたところもあるけれど,具体的にはイメージができなかった.

そこから,北海道での研究会計画が始まった.中島先生がほとんどのことを担当して,お金を引っ張ってきて,広島や各地域から先生方を呼び,北海道・札幌の先生たちにも満遍なく声をかけた.

また,僕は若手チームでの企画を任された.今でも忘れないが,車の中で中島先生と若手企画について話しているときには,本当にアイディアが出ず,何度も追い込まれた.面白いことをどんどん考えて,大喜利みたいにやっていくことにトラウマを感じ始めたのはこの頃か.これは,まだまだ自分が弱いところだから,研究アイディアについてももっと出せるようにトレーニングは必要であることは言うまでもない.

そこから,若手大学教員4名を関東と沖縄から集めて協力をお願いし,札幌の小中学校の先生4名にも声をかけてチームで企画を考えた.そこでも大学教員3名のしくじりや現職の先生たちの大学院へ進む契機を企画として聞くなど,これまでの研究会や学会では見たことがない内容の企画を考えていった.

こうした企画・運営や見通しを持つことについては,実は2023年度は何度も中島先生から怒られて,説教をされているのだけれど,この研究会については,自分を少しだけ評価できるところかもしれない.

 

結果的に,全国から大学教員も来てたくさんの話を北海道でしてくれて,現職の小中高,特別支援学校の先生たちも100名近くが参加してくれて,大盛況で研究会は終わった.中島先生はこの研究会の中でも周囲からの見る目が変わったと思われる.まさに北海道に大御所と言われる先生の存在が見えてきた研究会と言えるかもしれない.僕も,その弟子として全国での認知を拡大できた研究会になったと言える.


広島大チームとの出会い「お前,大学教員を辞めた方がいい」

今回の北海道での研究会にでは研究の情報交換のために前入りしていた広島大の3名の大学教員とともにいろいろな話をさせてもらった.通常,僕のような若造が一緒に長い時間話をさせてもらう機会などないし,情報交換した後の車の中や温泉の中,美味しいものを食べながら色々なお話をさせてもらった.

実は,広島大学というのは日本の体育科教育を作ってきた総本山であると言っていい.歴史的に見ると教育学の系譜から教科教育としての体育を確立させてきたと言える.その広島大から来た先生たちと一緒に北海道を観光して交流できることは僕にとって仕事でもなんでもなく,まさにリワード(報酬)であった.

 

夕食をみんなで食べているときのことである.

広島の大御所である木原成一郎先生は,それまでとても楽しそうに北海道を観光するおじいちゃんであった.しかし,彼らは急にスイッチを入れる.いきなり斜向かいの席に座る僕を指さして,

 

「お前は,大学教員をやめた方がいい」

と言い放った.今のところ研究者でもないし教師教育者になりたいという泥臭さも強さもない.しかも博士3年目でありながらまだ博士論文のデザインが完成していないなどありえないと.現場教員として子どもたちの前に立ってちゃんと経験を積んだ方がいいとはっきり目を見て言われた.

僕は,その場でたじろいで,言い返せずにいた.どんな研究をしようとしているかも説明したけれど,それは説明になっていなかっただろう.その後も木原先生からは何度も「お前は絶対にやめた方がいい」と言われ続けた.

そして,木原先生の弟子である久保先生は,木原先生からの攻撃を受け続ける僕の隣で「負けるな,負けるな」と言い続けた.この時の光景と空気感をきっといつまでも忘れることはないし,僕にとっては初めて体験した研究者としての洗礼だったかもしれない.

帰りの車で中島先生に,「木原先生のあの言葉は本当に贅沢だよ.ここで負けずに立ち向かっていったときに真価が問われる」と言われて,落ち込んでいる場合ではないということを思った.広島大チームの多くの弟子や大学院生たちが木原先生に言われ続けて,そこに立ち向かってきた,それは木原先生にではなく,自分自身に立ち向かってきたわけで,そこを乗り越えた人たちが博士をとって研究者・教師教育者として活躍している.

彼らは,自分の研究者・教師教育者としてのアイデンティティや武器を自分でわかっているからこそ,議論でもぶれないし,自分自身を考えを持って話せるのだと思う.

ここで初めて,広島大チームの個人の強さを思い知らされたのだった.改めて,今回の北海道の研究会を前に目の前に立ちはだかる強敵と対峙させてもらえたのは僕にとって大きな成果となったと思う.

木原先生はその後の観光の中でも幾度か,僕に対して問いかけてくださり,考えを掘り下げるようなことをしてくれた.そして,久保先生や中西先生といった木原先生の弟子たちが梅村の考えややっていることを拾って認めて育てようとしてくれた.


研究会を終えてー梅村拓未の研究者としてのアイデンティティを問い直すー

研究会の中で,僕はショートトークセッションの司会やポスター発表,若手企画などたくさんの役割をもらって活躍させてもらった.何よりも,木原先生をはじめとして多くの先生たちが僕をいじって試してくれた.おそらくそのことが梅村という一研究者の位置付けを今回の研究会で少しだけ高めてくれたのだと思う.

ポスター発表でも,たくさんの先生たちが聞きにきてくれてすごい勢いで批判された.聞いてみると,他のポスターと比べて人だかりになっていたようだ(自分の発表に夢中になって全然他の様子なんて見ている暇も余裕もなかった).おかげで研究会が2日あるうちの1日目の前半でどっと疲れてへとへとになったが,これだけ多くの先生たちに注目してもらえることにやはり嬉しさはある.それと同時に自分の研究の弱さも如実に出てきて,自分で考えるという作業の乏しさが顕在化したように思う.

研究会の前には,梅村拓未という研究者・教師教育者を問い直すこと,そして,研究会では研究の中身についてどう考えるかをもう一度考えて問うことができた.

それぞれの先生たちの話や企画が面白かった,1日目の情報交換会3次会ではラーメンを皆さんに奢ってもらえた(そのために革靴で大通からすすきのの奥まで走り倒した)といったことも大変強いハイライトだけれど,その話をし出したらキリがないので割愛する.

 

今回の研究会では,北海道でおそらく一番いじめられたのが僕だろう.でも,彼らが相手に対してはっきり物を言うのにはちゃんと意味がある.問いかけに対してどのように答えるのか,どのように考えるのかを常に大事にしているから,相手の真意を聞くのだろう.

そして,なんとか説明にならない説明でも答えようと努力したことで,北海道での存在感もアピールすることができたと思う.ただ,それは僕の力だけでは到底無理で,そもそもこの研究会が企画できて多くの先生たちが研究会に参加してくれた背景には間違いなく中島先生のこれまでの地道な努力がある.このことを僕だけでも決して忘れてはいけない.

 

自分は,北海道の体育科教育の歴史が変わる最も大事な瞬間に研究者としての人生をスタートして歩み始めることができた.中島先生と同じ時代に生まれていなかったから,今の景色,そしてこれからの景色は見れなかっただろう.

だからこそ,今自分が見ている景色をできるだけ言語として残しておきたいという思いで書き綴った.誰に見られなくてもいい.でも,20年後に振り返った時に,今回の広島チームとの出会いや北海道で研究会を開催したこと,そして梅村が「大学教員を辞めろ」と日本の体育科教育を背負ってきた大御所に言われたことが,北海道の体育科教育に大きな意味を持つものなるのだと思う.

 

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